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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

大学時代


いよいよ大学時代です

金閣寺


私は京都大学に進学したかったが、彼女(YY)との交際を捨ててまでガリ勉する気になれず(これは言い訳)、自然の流れに任せた。
YYとの京都は、先ず阪急電車の四条河原町に始まり、祇園から、八坂神社、知恩院、また高台寺と、特に決めていなければその方向にひたすら歩いた。
時には、詩仙堂で、庭の美しさに、二人行儀良く坐って何時間も眺めていた。
更に足を延ばして、深泥が池、借景庭園で有名な円通寺、宝ヶ池の京都国際会議場、それから更に北山に踏み入った、奥の、三千院。(雪景色が何とも言えず美しかった)
又少し離れた、建礼門院徳子をまつる寂光院(残念ながらここは火事にあったと聞くがその後どうなっているのか知らない。)楚々とした、小さな庵であったが、往事をしのぶに十分な品格を備えていた。
東に銀閣、西に金閣、その更に西の仁和寺。(徒然草に出てくる兼好法師のあれである)

又YYの友人の父が、平安神宮の宮司をしておられたのを良いことに普通では見られない神宮内も見せていただいた。
清水の舞台に立ったのもこの頃である。足を延ばして、比叡山延暦寺にも行った。
京都で、先ず、行っていないところはないといっていいだろう。当時は、今と違って、拝観料なるものが安かったので、学生(高校生)でも十分回れた気がする。
特に大徳寺では、石畳が大きさが同じで、正確で揃っているのを指して「こんな石畳の所は、格式が高いのよ」と教えてくれるのだった。
二条城も、左近の桜、右近の橘で有名な御所も訪れた。京都市内を外れた、嵐山線の苔寺にも行った。
三千院から山越に歩いて、鞍馬天狗の修行したという山中を越え、貴船神社に降り、その清流の爽やかさに汗の出るのを忘れるほどであった。
上賀茂、下賀茂神社も訪れた。その時何を話したのだろう、全くと言っていいほど覚えていない。
そんな長いデートの期間を過ぎ、YYは私の愛情を、というか、盲目的に彼女にのめりこんでいく私を見て、
それとなく、「お付き合いは、高校が終わる迄ね」と言いだした、時に頂点に達していた私は、この言葉の意味が理解できず、「え?」と聞き返した。YYはすかさず「今貴方には、私が一番綺麗で、素晴らしく見えているかも知れないけれど、世の中には一杯女性が居て、私なんかよりずっと素晴らしい人が現れるわよ」と事も無げに言うのだった。

今でもそれは間違っていると思っているが、一緒に暮らしていたら、こんなに淡い気持ちが残っていなかったかも知れない。
あるデートの帰りの阪急電車で、高槻駅に着き、暗かったので、家まで送っていくつもりで、一緒に降りた。
そして、暗がりの道で、人通りが途絶えたので、私は居ても立っても居られなく「キスしていぃ?」と聞いた。
YYは「何ぜそんなこと聞くの?」と逆にたしなめた。
そのまま唇を合わせたが、それが私にとっての文字通り初めての体験だった。
YYも初めてであったと思うが、とにかくぎこちないながらも、満足感と、充実感がみなぎった。そこに、足音が聞こえたので、そのままそそくさと歩いて、小川の淵で、再び唇を重ねた。
それからどのように阪急電車まで戻り、返ったのかさっぱり覚えていない。

*****

大学では、単位を落とすことなく、教養時代を終了した。そのころだろうか、YYとの別れが迫っていたのは、YYは、「貴方が私の元を去っていくだから仕方無しに、私は消える。」といった意味の言葉を残したからだ。
とんでもない、今でも愛している、と訴えても、受け付けてくれない。
女というのは、軟弱に見え、且つ可愛く見えても、その心は強く、且つしたたかである。
少なくとも、センチメンタルで、最後に泣くのは男の方である。当然相思相愛の間は、女は、男の肩にしなだれかかり、自然な形で媚びを売り、且つ甘えるものだと思っていたが。一旦、気持ちが変わると、それはタジカラオの尊でも動かせないぐらいに重い石と化してしまう。

若くて、バスケットで、活躍し、汗をかいているときは、未だ当然禿げてなかったし、そこそこ女性を惹きつける魅力はあったと思うが、20才を迎える頃から、だんだんと陰りが見えてくる。
そのころから女性は真剣に結婚を考えるものらしい。私は、当然結婚する意志があったが、(というより、このままずっと一緒に暮らすという意識だった)まだ若い、もう少し待って自分でしっかりと稼げるようになってからと、プロポーズ的な言葉も一切口にしなかった。
そのせいかどうかはYYに聞かぬと分からぬが、とにかく体よくお払い箱になってしまった。

非常に寂しかった。自暴自棄にもなった。大学の勉強にも少なからず影響は出た。
それほど恋しくて仕方がなかった。何故消えたんだ?

別れてずっと時間が経ち、少し落ち着きを取り戻した頃、携帯電話でそれとなく私は彼女に自分を振った理由を聞くと、ちゃっかり、YYの方は、私のせいにし、私が別れると言い出したと責任転嫁をする。
まぁ今となってはどうしようもないことだし、真実が分かったとしても、今更青春が帰るわけでもなく、且つこちらは禿げてしまったのだからと思い直すことにした事を思い出す。

やがてYYは、10才?年上の人と一緒になったと聞いた。「ま、いいか」彼女が幸せなら・・。無理矢理そう言い聞かせた。

物理で作用反作用の法則があるが、力(恋の)を掛けると、それに応じた反力が働くとなるはずであるが、一旦気が変わると、その正負は逆転し、作用に比例した負の作用、即ち逃げ出す力が働くのかなぁと一人考えたのもこの頃である。そう、恋しく想えば想うだけ、彼女は遠ざかっていく気がするのであった。

女は逃げ上手と聞いたが、正にそれを裏付けるようにテレサテンの曲が流れてくる。
「このまま貴方の胸で暮らしたい」と言いながら、「私より、綺麗な人見つけることよ・・・」とか、
「貴方をこれ以上、愛するなんて私には出来ない」という一方で、
「どうぞ戻って、あの人の元へ、私は、一人去っていく。
「・・・別れることが二人の為よ」と如何にも男のせいにして、去っていくのである。

事ほど左様に、女性は、如何にも自分を犠牲者に仕立てて、そそくさと、くだらない男を袖にするのである。
私の場合も、全く同様だと思う。こちらに何の落ち度もないのに、言葉尻を捕まえて、それを針小棒大に改作して、上のようなストーリーを作り去っていったものと思われる。

電話があった時、今貴女のことを書いているところです、と言ったら、是非URLをと言われたが、頭の禿げた「のらくろ君A」(都合で名前を変えたので、現在の名前を書いた)で出ていますと、小林旭ばりに答えたものだ。
しかし、やはり彼女の慧眼、例え結婚していても、うだつの上がらない「部長になれなかった男」では幸せにしてあげられるものではない無い。

お金や、名誉は要らない、愛があればと綺麗事を考えるのは、むしろ男の方で、女は、そんなことは初めの一、二年であることを十分承知している。

私は体よく振られたわけだが、未練があり現在も年賀状だけは交換している。
そうなったら、バスケットと、勉強以外に残された道はない。
私は、その両方に一生懸命打ち込んだ。

大学時代は、女性との交際を期待出来る環境ではなかった。(工学部全体で女性は2から3人位だったような気がする)今はやりの合コンとやらの声も全く聞かなかった。

学問の方はといえば、「船舶算法の、進水の計算、船体構造力学での「カスティリアーノの定理」。振動の基礎、船体運動力学の、抵抗、推進、旋回、そしてフルード数、どれをとっても息が抜けない。

造船工学科は例年30人が定員で約4ー6名が留年するそうだ、去年入学した先輩が4人位同学年にいる。
私もそうなってはまずいので結構真面目に取り組んだ。

材料力学ではたった1日「モールの円」の講義の時、風邪で休んでしまい、以後「モールの円」という文字を見るとなにやら嫌な気がしたものだ。
結局、心底頭が良くなかった私は、造船花形である、水関係の船体運動や、流体力学を専攻することを止め、一番簡単そうな、というか、最も負担の少なそうな材料強度学(脆性破壊)を専攻した。
と言っても、博士課程の人の論文のデータづくり手伝いであり、寒い冬、六甲降ろしの川崎重工神戸造船所で、震えながら液体窒素-196度を使って足腰を冷やしながら丸棒の引張試験データを取るのが役目だった。

私は、中学から始めたバスケットに懲りずに、高校、大学でもその道を歩んだのだが、大学では1年下に、Sa、Syo、Hoという異才が入ってきた。三国ヶ丘のキャプテンと、その大黒柱、それに灘高のキャプテンだ。
左エンドからのカットイン、ゴール下のリバウンド、3点シュート圏内(今で言う)からの正確なジャンプシュートとそれぞれ特技を持って集まった。

こんな事はまれであろう。
私と、甲陽高校出身のSMaとその3人で、新人戦を戦った、相手は、その時ときめく、同志社大学、関西の雄である。
(とは言っても入り立てだから皆どっこいどっこい)
その同志社に大差で勝ってしまったのである。阪大始まって以来の快挙である。
相手の監督の怒る様は、手に取るように分かった。如何に新人戦(1,2年生だけ)とはいえ、関西の雄が、国立大などに負けてというのが本音のようだった。我々の方は狂喜した。でも後にも先にも同志社大に勝ったのはその時だけだった。
それから1年、同志社と再び戦うことがあったが、当然の帰結として大敗した。
それにしても、愉快な試合ではあった。
私は、練習に真面目に出て行ったが、特にセオリー(フォーメーション)があってないような戦法で、個人のポテンシャルに委ねる傾向があったので、チーム力はすぐ頭打ちになってしまった。

ある日、私は口実を作って、練習をさぼり、YYと難波でデートをしているとき福さんと呼ばれる、監督にバッタリ会ってしまった。
悪いことは出来ないものである。
監督は何も云わず、聞かずで、出来た人で、その事を咎めることはなかった。
ここで思い出したが、YYは、私の物理の副読本の裏表紙に四つ葉のクローバーを貼ってくれていた。(1963年4月27日とあった。)
それは未だ高校時代である。この間、本を開くと、柄の部分が折れている以外は健全だった。早速スコッチテープで補修しておいた。
ともあれ、その本に、自分で線を引き、自分で書き込んでいることが、今や全くちんぷんかんぷんである。
弾性力学は少し分かるが、熱力、波動、電気、諸々は、全部学校に返してきたようだ。何とも懐かしい。

国立大学のことだから、バスケットで飯を食うわけでもないし、寸足らずの私は当然アマチュアとしてバスケを楽しむだけであった。(日本のバスケ自身が閉鎖的であり、世界に通用しないことはあきらかだった)
私はそれを知りつつ「ネイ・スミス」が頭で考えた理知的スポーツという点にも心が動かされたことは事実である。
大学でのクラブ活動でバスケットでは、3年の夏休み、私はキャプテンとして、信州で合宿をしているとき、体育館を回るランニン中に、腰が重く、まるで、腰に鉛をつけて走っている状態になった。そしてやがて動けなくなり、合宿を早めに切り上げ、一人帰阪した。
マネージャーの女性が、阪大病院の偉い先生を知っているというので、整形外科の戸を叩いた。こんな時は同窓であるということは便利であった。

先代の朝潮太郎を相撲廃業に追いやった、第六腰椎分離症と診断された。これ以上プレーを続けることは出来なくなって、ベンチに回った。
こうして、バスケットの生命は絶たれたかに思われたが、暫く休んでいると、何の拍子にか骨は巧くはまり込んだようで、痛くも痒くもなくなった。
理由は全く不明であった。
そのまま復帰して、再び、主将の任を負わされた。何ということはない、三年生の数が少なく行きがかり上のことだった。
卒業記念に貰った、めっきのバスケットボール姿の小さな像は、引越の間に壊れてしまい、台座に「祝ご卒業○○様」阪大バスケットボール部とある。

大学に於けるバスケットの話はおおよそ以上だが、勉強の方に移る。

私は、教養時代は訳も分からず闇雲に勉強した。
大学の講義は、まるでちんぷんかんぷんの事ばかりだ。余りにも高校時代の詰め込み主義と違う。
教授はそんなことは何処吹く風、微分、積分も半端じゃない。
まるで、舵を失った船のように、目的意識無く浪に翻弄されてしまっている。
高校時代に少しは分かったつもりの、微分積分も、そこでは全く歯が立たない。「シュレジンガーの方程式」は、忘れもしない。

さて、「数解」「般力」「独語」には悩まされた。

「般力」と呼ばれた「一般力学」の千田香苗教授は、試験の時、私の山を完全に外した問題を黒板に書き始めた。

私は、シュレジンガーの方程式を必死に勉強し、その式を使って応用問題を解くことを想定して山を張ったのだ。
そして試験当日、黒板には、「シュレジンガーの・・・」と書かれたではないか。
「やった!」と密かに思ったのも束の間、その後は「を導く計算式を書け」であった。

一同唖然とし、試験会場はざわめきと、落胆の声が聞かれた。
大半の者が、最低在席時間を待ってそそくさと席を立って、室外に出た。

私は、「ええい、儘よ」とばかり、自分で想定した問題を、問いには関係なくつらつらと述べまくった。
でないと、何も勉強していないと思われるのが嫌だったからである。
教授の出題もおかしいとの不平のつもりでもあった。何も造船や原子力に進む者共が、それから先一生お目に掛かれないそんな式を導いてどうするのだとも思った。
とにかく私は、シュレジンガーの方程式について知りうる範囲を答案用紙に書きまくった。
その結果、一般力学の単位は私と数人だけに与えられ、その他の者は、再試験を受ける羽目になったようだ。

再試験組に、現九州大学応用力学研教授や大阪大学教授も含まれていた。
難関と言われた一つをクリアーで来たのはラッキーだった。(いずれにせよ山が当たった訳だ)

「数解」と呼ばれていた「数学解析」も何の問題か忘れてしまったが、これも一発で単位を取れた。
「独語」についても、ウムラウトや、Ich bin・・・eine kreine naght music(スペルはあやふや)Der Des Dem Den等耳懐かしい。

実社会で、ドイツ語に出会ったのは殆ど一回きりで、ドイツ語の文献を訳すのに当時お世話になった、独和辞典を手にしたとき位だ。

ドイツ語は当時理数系の第二外国語として脚光を浴びた、今の独語は世界に通用しない、Country wordになったようだ。
時の教科書は「Warum? Wieso? Weshhaib?」と「Ein Blick auf den Rhein」だった。
とにかく線が一杯引いてあり、さも勉強したかの如くだが、全く覚えていない。
「Das Uhre ist da?」や「der Fruhling ist da.」など断片的にしか覚えていない。
又船が女性名詞であることもこの時知った。それなりに有意義であった。
原子力工学専攻の友人(宝塚歌劇好き)は:
「Das mechen zurosu zagen und mata hirogen」等と言っては、人を笑わせていた。
もう少し思い出すことがあるかも知れない。教養時代は1年半もあったのだから・・・。

おかげで今日があるのかも知れない。興味を感じたのは、三木鉄夫先生の「航空宇宙工学概論」だ。
概論だから、余り難しいことは書いてない。しかし難しい。

誰か(三木先生か?)が言っていたが、「海(造船)より空(航空)へ進む人間の方が頭のいい奴が多いんだ」だ。
京大に航空はある。しかし阪大にはない。有名な木村先生も航空だ。「空気力学」「揚力理論」「プロペラの特性」「振動」「疲労」「強度」「ロケット」「VTOL」「STOL」など興味は尽きないし、「ロケット」「VTOL」「STOL」を除き、そのどれも専門課程での造船に役立つものばかりだ。
ボーイングもロッキードも、ダグラス(今やエアバスも)もこの理論で飛行機を飛ばしているのだ。しかし理論的には納得できるが、その前に人間の感覚で、ジュラルミンの巨大な物体が、空を飛ぶなどとは、感覚的に理解できない(飛行機に乗ったら、窓外の主翼は波を打っているではないか)
飛行機に乗るたびにその事を考える。その点、船は、「アルキメデスの原理」であり、下が水(粘性が大)なので、これが浮くことは感情的にも納得できる。
我田引水か?それ故、「航空」には頭の良い奴が集まるのか。そうでないと、飛行機が落っこちてしまうからなぁ。等々考えたものだ。
新幹線に乗っても「新幹線事故」柳田邦男を読んで震えている位だから、理論や強度には相当神経質である。
渡辺正紀先生の「溶接設計と管理」は、その後造船所に於いて鋼材を扱う上で、大変参考になった。

会社に入ってから、「鋼構造溶接施工・管理教本」で1級鉄骨製作管理技士の資格を取ったが、更新をし忘れて、剥奪された。
しかしその知識は、脈々と生きているのだから、肩書きなどはどうでも良い。
何故日本は肩書きをほしがるのか。人を見ずに、肩書きで人物を判断する嫌いがある。
課長より、部長(これになれなかった)、部長より工場長更に事業部長、取締役、常務、専務、副社長、社長である。

部長になれなかった私は、課長として辣腕を振るう以外になかった。
課長とは、昔の軍隊でいうと、下士官、いや、末端将校の少尉か中尉位かなぁと思っている。
そこへいくと文官とはいえ、海軍大佐にまでなった私の父は、工業高校出ではあったが(旧制だから今の工業大学みたいなものか)大したものだと思っている。
親父を越えられないジレンマは確かにある。だが、残された人生は後13年ある。この間に一杯仕事も教養も付けられるではないか。死ぬ間際に、「俺は貴方を越えたよ」といって死んでいきたい。
話が、それてしまったが、又続きの教養時代の話に戻ろう。

さて、自分が選んだ道だから、造船工学が好きになる。私の場合は何時もそうである。
買い物でも、物を買うまでは、色々悩むが、一旦買ってしまえば、自分が買ったものが最高と思い込み、後は見向きもしない。
そうしないと、何時までも未練が残るし、金さえあれば、何でも買えるのだから。
その私が好きになったのが造船工学で今は航空工学よりも好きである。
造船工学にも、
1.弾性学(材料力学)
2.振動
3.疲労
4.船舶算法
5.復元力
6.進水
7.積量測度
8.トロコイド波理論
9.運動(動揺・抵抗・推進・旋回)
10.溶接
11.流体力学
12.有限要素法(FEM)
等々がある。
一般教養は前に述べた3つ学科の印象が余りに強く、ほかは「図学」に悩まされた。
先ず、変な形をした立体を、投影したり展開したりそもそもそれが学問であるとは・・・。流石奥が深いと思ったものだ。

「電子計算機入門」という講義があった。
今のように「GUI」など考えも付かぬ、「アッセンブラー」の時代である。機械語、チップ、1と0、ノイマン、数々の言葉を覚えたが、中身は面白くなく、私をコンピュータ嫌いにするに十分だった。
こんな教育で、興味を持つものが現れるのかちょっと不思議な気がした。

それがベースで、今日があるのかと思うと、やはり教育、勉強は、万遍なく行うべしと今にして思う。

1年生の終わり、バスケの同級生で数学科のSMaが、「運転免許を取りに行かぬか」という。
当時我が家は貧乏で、今も変わらぬが、親父の懐など当てに出来ない、今の学生のように、勉強そっちのけで、アルバイトをやる時間もない。

「いや、一寸」と応えて、家に帰り事情を話すと、意外にすんなり行って良しと言われた。
それから教官と呼ばれる、無教養な男の罵声の連続の中で、免許取得時代に突入した。

先ず、教養時代が1.5年であることを述べたが、そのために通年で取得しなければならない単位は、落とすわけには行かない。半年では、「追試」の機会が無くなるのだ。必死だった。

又、車の運転自身も初めてで、前方を見ていると、アクセル、ブレーキ、クラッチが疎かになりエンジンがノッキングする。クラッチ(床の方)を気にすると、やはり前方が不注意になり、車が電柱にぶつかりそうになり、横の指導員がブレーキを踏み、罵声を浴びせる。
今のオートマチックであればどってこと無かったのに・・・。

そも彼らを先生と呼ぶのは如何か「品位に欠け、教え方も粗雑。能力(運転の)無い者には容赦をしない、人間性が欠如した相手に対して「先生」とは。
尤も「先生と呼ばれるほどの馬鹿じゃなし」との言葉もあるが。
指導の仕方で、所長と掛け合い、指導員を替えさせたという人もいることを、入所してから聞いたことがあるので、大阪も岡山も皆同じなんだなぁと思ったものだ。
一緒に受けた相手は、三輪車(オートバイ)に無免許で乗って平気で教習所へやってくる時代だったので、その差は大きかったがそうこうする内、慣れてきて、指導員も安心してか、
「君ら二人が満点で通ったら、飯を奢ってやる」と言い出した。結局、その話は入庫後の出庫時に、ウインカーを忘れて減点4となり、成績が96点だったので、果たせなかった。相棒も何点か引かれたようなので、責めを負わずに済んだ。
教習期間中、横を通る、阪急宝塚線で、踏切を無理に渡ろうとした、違反者を、律儀にも追いかけ、下りの電車にはねられ、粉みじんに散った警官がいた。
生なましかったので、指導員も、一緒に行ってみようということになり「教習」そっちのけで、現場へ見に行った。
教習所内から十分見える所だ。あわれ、肉片と化したその警官を、バケツと十能で、係官が肉片を拾い集めている。
その係官の姿が、今も生々しく頭に残っている。
S39年冬、かくして、新しい免許証は門真で、公布された。当時は路上講習は無かった。S字、クランク、車庫入れ(私にはこれが難関)だったなどをマスターしての真新しい免許証だった。

もう少し大学時代の話をしよう。そう七帝戦だ。

旧帝国大学は七つあり、第一高等学校は言うまでもなく現東京大学、第二は東北大学。第三は憧れだった京都大学、我が大阪大学は、第何か(大阪工業大学が前身?)、詳しく調べていない。
後は東から北海道大学、名古屋大学、九州大学とある。この七校で、毎年体育の祭典である七帝戦が行われる。
あらゆる種目があるが、当然バスケットボールもその一つだ。
私が、最初に遠征したのは、九州大学だった。それから名古屋大学、京都大学と後一つは失念してしまった。(残念だが、北大には行ってない)

名古屋大学とは、七帝戦の他に名阪戦があり別途試合があった。九州大学での、試合の最終日、終わって、所謂ノーサイドで宴会がなされるが、ビールをしこたま飲んで、九大の校庭を駆け回り、小便でマーキングをして帰った。
又京都大学では、TNaの兄貴(MNa)が、キャプテンをしていて、最後に、宴会が開かれたのは庭付きの料亭みたいなところだった。
その庭内は結構大きな池があり、その池に、兄貴は七校の代表選手に担がれて放り投げられ、ずぶ濡れになっていたのを思い出す。
そのほかと言えば、北海道大学の応援団のことであろう。
彼らは、絶対に風呂に入らない。羽織袴も洗濯をしない。校旗も然り。従って彼らが傍に来るだけで、異様な臭いを発するが、それが又応援する時は、校旗を振り回し、フレーフレーとやるものだから、室内中何となく居たたまれない雰囲気になってしまう。
この七帝戦で、北海道へ行きたかったが、来年北大という時、既に4年生になっていた。残念なことである。そして未だに北海道だけは行ったことがない。

YYとの交際も途切れ途切れになり、結局昭和36年4月1日から昭和42年3月31日で、その6年に渡る交際期間を終わってしまった。
ひょっとして「結婚してくれ」と言っていたら今頃どうなっていただろうか?ゴルフと人生は一緒、「タラ、レバ」の利かないのである。

そんな人生だから、最近になって、大事にしなければと思うようになったのだ。
論語に言う。「五十にして天命を知る。六十にして耳順う、七十にして心の欲するところに従って矩を踰えず。」:天命をわきまえたか?否。
後三年で、人の言葉が素直に聞けるか。疑わしい。未だ七十は先としてもどうにも凡人の侭で終わりそうである。

又思い出したら書くとして、大学生活をひとまず終わり、卒業して就職することにしよう。




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